6月10日 進撃の巨人は美しい愛の物語。〜最終巻を読んで〜

ミカサはエレンに引導を渡し、事切れるまでのせめてもの間に、最上の愛の形としての接吻を果たした。ユミルは愛に囚われない人物像をミカサに見出し、亡きフリッツ王の呪縛から解放された。同時に、世界中の巨人の力が消滅した。ミカサは、愛に囚われない選択を採れたとはいえ、事後、自らが殺したエレンを惜しむ。だがそれも、鳥に転生したエレンの存在を知ったことで救いを得ることができた。…

 


読了後、何も感じなかった状態から、コマの一つ一つに解釈が遅れて施されてゆき、そうしてじわじわと湧き始めた安心感、満足感。紛れもなく名作だった。大枠としては、エレンを殺す覚悟を決めたミカサと、それを望むエレンが邂逅を果たすことがクライマックスである。憎しみから生まれた対立の嵐が二人を巻き込んだ。恋愛に溺れる者共は死ぬ。生き残ってきた者は皆恋愛にかまけてなどいなかった。ミカサとエレンの間の恋愛の描写はほとんど無かった。しかし戦いの終結という、この状況の中唯一安寧を取り戻せる結末を手に入れたミカサは、「今までの全てを踏まえた上で」エレンと再会することができた。それもほんの一瞬。家族と呼べるほど深い関係だった人、その人を殺し、戦いを終わらせ、今際の際に再会する。殺すことをお互いに望んでいる。言葉抜きに、いや言葉を媒介しないからこそ伝わった真意、真意が伝わったからこそ深く、広く安心しているエレンと、全身で充実して喜びを感じているミカサ、その状態の二人が会えたのは本当に一瞬だった、、いや、永遠だったのかもしれない。一瞬を永遠に味わう、ゆえに美しい、その美しさは、グリシャが巨人を継承するときの夕日の美しさの系統であり、それを遥かに超える作中トップの美しさである。「明らかな安寧」、それに感じる安心感が美しさに拍車をかけているのだろうか。この描写を見ると美しさを感じ、それと同時に夕日に照らされたどこかの風景が想起されるのである。「明らかな安寧」から考えてみれば、取り戻せない子供の頃の思い出の美しさと似ているということもわかる。再会のページ、あれこそが諫山先生が描きたかったものである。

 


〈蛇足〉

エレンは鳥に転生する必要はあったのだろうか?この描写がなければ儚さに身を灼かれそうになってしまうことは確かだ。しかしこれまでの作風から考えると、別れを覚悟し受け入れたミカサが、鳥とはいえエレンに再び会えるなどということは些か甘っちょろいものと受け取れる。ただ、調査兵団然り、死者と交流するのはミカサだけではなかった。ここに関しては読者により評が分かれるだろうか。